国家存亡の危機と信仰の決断

                                イザヤ書 7117、マタイによる福音書 11824     2021.4.25

 

 私たち、礼拝のために教会に集まる者たちにとって、信仰が大切なものであるのは言うまでもありません。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とへブル書11章6節は言います。へブル書はさらにこうも言っています。「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」神は確かにおられ、その神は私たちが求めていることを顧みて下さる方なのです。かりに、自分は信仰を持っていると思っていながら、ふだん神が自分と共におられることを忘れているなら、その信仰は生きた信仰とはいえません。どんな人にも、人生の旅の途上で右に進むか左に進むかどちらを選んだら良いだろうかという重大な決断の時がありますが、そんな時、「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である」と言われているにもかかわらず、神を見上げることなく、祈ることもなく、自分の考えだけで大事な判断をする人がいるとすれば、その信仰は「絵に描いた餅」のようなものでしかなかったということになるでしょう。もちろん、今ここにいる誰もが、そんなことではいけないとわかってはいるのですが。その人の信仰が本物かどうかは特に何か重大な危機が迫った時、外に現れるものです。

 

 イザヤ書7章が語っているのは紀元前8世紀の話で、当時イスラエル民族は北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂していました。ユダの国でウジヤ王の死んだ年にイザヤが召命を受け、神様から預言者として立てられたことを前回学びましたが、ウジヤ王の後、息子ヨタムが王となって16年間ユダを治め、そのあとを継いだのがヨタムの息子であるアハズです。イザヤ書7章に書いてあることは、アハズ王の治世の時代、紀元前735年から734年にかけてのことだと考えられています。

7章1節と2節は言います、「アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」ここでアラムというのはユダの北にあった国、シリアともいいます。イスラエルは北王国のこと、この国の別名がエフライムです。ダビデの家とは南王国ユダの王家です。なお17節にアッシリアが出てきまして、この国がすべての騒動のもとになっています。アッシリアはユダから見て東北、今のイラクあたりに本拠地を置く当時の超大国です。何が起こったのかと言いますと、この国が軍隊を動かして南に勢力を伸ばそうとしていたのです。

 超大国の脅威が迫ってくる時、弱小国は自分たちはひとたまりもないと思っておびえるのが普通です。そこでアラムとイスラエルが、シリアとエフライムと言っても同じですが、アッシリアに対抗するため、手を結んで同盟関係になったのです。そして、さらに、ユダに対しても、これに参加することを求め、三国同盟を結成しようとしたようです。小さな国としては当然の方法であったと思います。しかしユダとしては、うっかりこれに乗れない事情がありました。アラムとイスラエルは、ユダの王をアハズから別の人物に首をすげかえて、ここを扱いやすい国にしようとしていたのです。その証拠が6節にあります。彼らは「ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう」と言っていました。おそらくアラムとユダ、またイスラエルとユダ、さらにアラムとイスラエルの間は以前から対立が続いていて、急に三国同盟と言っても出来るものではなかったのでしょう。…しかしアラムとイスラエルは、一緒になってユダに攻め込みました。アハズ王を倒して新しい王を立て、その上で三国同盟をつくりアッシリアに対抗しようとする意図があったのだと考えられます。その攻撃は失敗したのですが、アラムとイスラエルが同盟したことがユダにとって大変な衝撃をもって伝えられ、王から一般の人々まで、恐怖にふるえることになりました。まさに国家存亡の危機に陥ったのです。

 ユダ王国が陥った危機を私たちははるか大昔の出来事だと言って聞き流すことは出来ません。今の時代にも起こりうることだからです。日本は1945年の敗戦以降76年にわたって戦争をしておらず、平和国家ということになっていて、私たちも平和がずっと続くことを願っています。しかし、みんなが平和を願ったからといって平和が実現するものではありません。今の日本では、九条を守れとか非武装中立などを唱える人たちがだんだん旗色が悪くなってきて、強大な軍隊を造ろうという人が増えてきて、中には日本も核武装しようなどと言う人も出ています。国際政治を考える時は、現実を冷静に分析する目が必要で、現に日本は東の大国と西の大国の間できわめて難しい舵取りをしなければならないところにいまして、そうした状況を頭の片隅にでも置きながらイザヤ書を受け取って下さいますように。

 

ユダが国家存亡の危機にある時、主なる神はイザヤを息子と共にアハズ王のもとに遣わされました。その場所は、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れです。王がこの場所にいた理由は、水の少ないエルサレムにとって、籠城して立てこもるには水源の確保が何より必要だったからで、その意味ではアハズは有能な王だったかもしれません。けれども、王としてまずしなければならないことは別にあったはずです。すなわち神のみこころを尋ねることだったのですが。

イザヤを通してアハズ王に伝えられた神の言葉には憐れみが感じられます。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」。この時アハズは動揺して落ち着きを失っていました。敵を恐れ、おびえていました。だから神はそう言って、励まされたのです。…神はアラムの王とイスラエルの王を燃え残ってくすぶる切り株と呼び、彼らのために心を弱くしてはならないと言われます。「それは実現せず、成就しない」、アラムの王とイスラエルの王の企ては実現しないということです。

 そうして神は8節で、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と言われます。ここは3年前に出た聖書協会共同訳では「あなたがたが信じなければ、しっかりと立つことはできない」と訳されていました。「確かにされない」では日本語として少し妙ですが、「しっかりと立つことはできない」ならわかりますね。信じなければ、しっかりと立つことはできない、それは、信じることでしっかりと立つことができるということにほかなりません。神の言葉を信じることが、どれほど重大な事態にあっても、人が、国が、しっかりと立つことのできる条件であるのです。

 神はさらに、アハズ王にこう言われました。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」。神はここで、アラムの王とイスラエル王の企ては実現しないと告げても心を動かされない王にその証拠となるしるしを見せようとされたのです。「深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」、なぜ陰府が出て来るのかよくわからないのですが、陰府であれ天であれ、この世とは違う次元の世界ですから、これは人の思いをはるかに超えたお方である神に尋ね、神を通して、いま目の前に立ちはだかっている問題に対し真の解決を求めよ、と言われたことになるのです。人間の問題は人間のレベルの中だけで考えるのではなく、神の中に真の解決を求めよ、そうすれば必ず答えが与えられるとの約束です。

 アハズ王は、神様からなんと丁寧に応対されたかと思います。しかし、この人はその求めを断わりました。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」という言葉で。…イエス・キリストは悪魔に、ここから飛び降りてごらんなさいと言われた時、「あなたの神である主を試してはならない」という言葉で悪魔を打ち破りました(マタイ4:7)が、そういうことがあるために、アハズ王のこの時の言葉も信仰から来たものと思う人があるかもしれません。でも、これは信仰とは似て非なる言葉です。神がわざわざしるしを見せてあげようと言われたのに、それはいらないと言うのです。「主を試すようなことはしない」といういっけん信仰的な言い回しをしながら、神の助けを拒絶したのです。

 では、アハズ王はいったい何により頼んでこの時の危機を切り抜けようとしていたのでしょう。神の助けはいらないわけですから人の力に頼るのです。この時、王の頭にあったことははっきりしています。列王記下の16章7節にこう書いてあるからです。「アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた。『わたしはあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください。』」、…王はこともあろうにユダを含む弱小国の脅威の的となっている超大国アッシリアと手を結んで生き延びようとしていたのです。当面の敵から自分を守るためには、力の強い者にすりよるしかないと考えたからのです。

国際政治というのはパワーゲームのようなもので、このようなことは昔からよくあって、現代の世界でもある国とある国がくっついたり、対立したり、戦争もあり、複雑で奇怪なかけひきが行われていますが、問題はその時に、現実の力関係だけを考えて国の行方を決めて良いのかということです。今の日本なら、この国の力は絶大だからこの国についていく限り安心だとか、いやーこちらの国の方がこれから発展していくだろうから乗り換えた方がいいとか、親方日の丸的発想をする人がいるようですが、アハズ王の現代版といえましょう。私たちにしても、国の政治を動かすような力はないとしても、この世で生きぬいていく中で、常に力の強いところにばかりすりよるだけだったら、同じ穴のむじなでしかありません。聖書にこういう言葉があります、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」(詩編6211節)。人がもっとも心がけなければならないことは、たとえ戦争というまことに厳しい現実の中にあっても、正義がどこにあるかを求めることで、これは神のみこころを尋ね求めることがないかぎり、けっして得ることが出来ないのです。

 

アハズ王はふだんは信仰深い人間のような顔をしていたのかもしれませんが、ここでめっきがはげました。預言者を通して与えられた神の言葉をはねつけたのです。この王に対し、イザヤは「あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」と言いますが、この時イザヤの心の中では怒りが煮えたぎっていたにちがいありません。しかしながら、そうして与えられたのは神の怒りの言葉でもなく、呪いの言葉でもありません。有名なインマヌエル預言です。「見よ、おとめがみごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。インマヌエルの意味は、マタイ福音書が「神は我々と共におられる」であると説明してくれています。

私たちはクリスマスシーズンに、マタイ福音書からこのインマヌエル預言を読んで、イザヤが預言したこのことがイエス・キリストのご降誕だと教えられてきました。それはそれで良いのですが、イザヤ書を読み込んでゆくと多くの問題にぶつかります。というのは16節で「その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」と書いてありますね。アラムの王とイスラエルの王はここで預言された通り、この先、戦乱の中で殺され、ユダの脅威になることはありませんでした。また17節の「エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」も実現します。これらは歴史的事実であって、聖書はそのことを記録しています。…ただそうなると、インマヌエルと呼ばれる男の子が生まれたのは、預言があった時からそう遠くない時期となり、それがどうしておよそ700年後に生まれるイエス様なのか、ということになりますね。

この問題をきれいに説明することは出来ません。一説によると、アハズ王にこの先ヒゼキヤという息子が与えられますが、その人がインマヌエルだというのです。ヒゼキヤは父親と違いすばらしい人物で、神様の目にかなう正しいことをことごとく行って行くのです。…ただ、そうであったとしても、インマヌエル、神が我々と共におられるということが、イエス・キリストによって究極的な形で世に示されたということは、未来永劫変わることはありません。

 

聖書は、超大国アッシリアの軍門に下ったアハズ王の判断が、まるで虎の尾を踏むような危険きわまる賭けだったことを告げています。アハズ王は、国々の力関係だけを見て、神の言葉をきかず、自分ではいちばん現実的だと判断した政策を取ったのですが、その結果は惨憺たるものになってしまいます。アハズ王が死んだ時、その遺体は歴代の王の墓には入れられませんでした(歴代誌下2827)。それが、この時代の王に対する評価です。…しかし神は、アハズ王の不信仰に対し怒りをこらえながら、インマヌエル、神は我々と共におられるということを世界に示して下さいました。人間の目に現実的だと思える判断が必ずしも現実的ではなく、神のみこころこそが歴史を貫いていくのです。このことは、21世紀の今日においても妥当します。私たちも神を信じることによって、しっかり立つべきです。

 

(祈り)

 私たちの救い主なる神様。神様が与えて下さる救いが、単に私たちの内面に関わることばかりではなく、私たちの社会生活に関わり、さらに国と国の関係にも及ぶことを、今日学ぶことが出来ました。こうした世界史の大きな流れの中で、イエス様のご降誕があったのですね。世界の歴史を導いておられる神様が、この小さな私たちを顧みて下さるとは、人間とは何ものなのでしょうという思いを新たにいたします。

 神様、私たちが日曜日だけのキリスト者ではなく、ふだんの日も信仰によって生活し、何をするにおいても神様の栄光をあらわすことが出来ますようお導き下さい。

今日、広島市は選挙の日です。どうか神様のみこころが選挙結果として現れますように。

そして今も拡大し続けるコロナ禍にあって、これをたたかうすべての人を強め、教会がそのたたかいに少しでも貢献することが出来ますようにと願います。

 

とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。