試みに合わせないで下さい。

試みにあわせないで下さい。 創世記317、マタイ6915   2022.8.7

      

(順序)

前奏、招詞:詩編1213、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:14、説教、祈り、讃美歌:399、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、203)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 私たちのふだんの生活には祈りがなくてはなりません。教会にいる時ばかりではなく、どんな時、どんな場所においても神様と結びついているためです。ただ、そうは思ってはいても、実際には出来ないことがあります。お祈りしようとしても祈りの言葉が出てこないこともあるかもしれません。…しかし、そんな時でも、主の祈りをすることは出来るのです。祈りの言葉が出ない時は主の祈りをするべきです。…主の祈りには、人間が祈るべきことのすべてが含まれているからです。

 

前回の礼拝で「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」の元になった祈りについて学びましたが、これに続くのが「我らを試みにあわせず悪より救いだしたまえ」の祈りです。神様に向かって罪のゆるしを求めた者が今度は、試みにあわせず悪より救いだしたまえと祈るのです。

 主イエスがこの祈りを制定されたのは、主が人間の弱さを知っておられ、人間が信仰のたたかいを勝ち抜いてゆくために、この祈りがなくてはならないことを知っておられたからにほかなりません。

 そこでこの祈りを考える時、皆さんはふしぎに思われたことがなかったでしょうか。それはこういうことです。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」、この祈りのもとになっているマタイ福音書6章13節を見ると「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と書いてありますね。試みではなく、誘惑という言葉が使われているのです。誘惑がなぜ試みになってしまうのでしょうか。ちなみに、日本の教会では主の祈りの翻訳も各教派で微妙に違っていますから、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と祈っているところもあるのです。

 これでは誘惑と試みとどっちが本当なのかということになってしまいますが、ここには深い意味がありそうです。実は6章13節の、誘惑と訳された言葉は原文ではペイラスモスと言い、新約聖書にはこの言葉がこの他にもたくさん入っていますが、これを翻訳するにあたって、ある時には誘惑、ある時には試み、また試練、といったように使い分けられているのです。こんなことは日本語にはありません。日本語では誘惑も試みも全く別の言葉です。しかし聖書の考え方ではまったく同じ言葉なのです。同じ言葉が良い意味では試みとなり、悪い意味では誘惑となるのです。

 それはどういうことなのか、まず試みということからお話しすると、聖書には、神が人間を訓練するために試みることがあることを教えていて、参考になります。ヘブライ人への手紙の12章5節の途中から次のように書いてあります。「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである』。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」。…試みをこのように、神のなさる訓練であるととらえることが可能です。

 では、私たちはそのことを待ち望むべきなのでしょうか。…むかし「巨人の星」というマンガが流行しましたが、その中で主人公の星飛雄馬が「おれの今の気持ちは『天よ、われに七難八苦を与えたまえ』と祈った山中鹿之助の心境だ」と言っています。すごいことを言うものだと思ってしまいました。山中鹿之助というのは戦国時代、毛利と戦った尼子氏に仕えた武将で、傾きかけた主君の家のために獅子奮迅の働きをした人です。そこで、山中鹿之助に心酔していたある人が同じように「われに七難八苦を与えたまえ」と祈ろうとしたら、…牧師に「あなたは自分のことがわかっていない」と言うれてしまったそうです。「われに七難八苦を与えたまえ」、こんな祈りはかっこよく聞こえますが、山中鹿之助自身、この祈りをすることがはたして良かったのでしょうか、これは自分の身のほどもわきまえない、大げさな祈りだと言えそうです。実際、私たちの内の多くは自分で望んでもいないのに七難八苦を与えられていますから、わざわざこんな祈りをする必要はありません。

 人間は弱いものですから、自分の身にふりかかってくる苦しみをすべて耐え忍ぶことは出来ません。試みを受けた結果、自分が強くなり、前より高いところに達することが出来るのなら良いのですが、逆にそこに誘惑がしのびよって来て、負けてしまうということが起こります。……たとえば、会社で昇進人事が行われて、後輩が自分より偉くなってしまったとします。大きなショックを受けて、やけ酒をあおり、仕事に対してやる気をなくしてしまうかもしれません。……けれども、逆にこの出来事を通して発奮し、仕事に身を入れて働くことによって、以前より良い成績を残すことが出来るかもしれません。あとから振り返ってみると、その時の苦しみが神様から与えられた恵みだったと気がつくことだってあるでしょう。…つまり、一つの出来事に対してそれに雄々しく立ち向かってゆくなら、それは神から与えられた試みということになりますが、その出来事によってだめになってしまえば、それは誘惑に負けてしまったことになるのです。

そこでマタイ6章13節にかえると、後半に「悪い者から救ってください」という句が入っています。悪い者が行うことは明らかに誘惑です。だから、新共同訳聖書が前半を「わたしたちを試みに遭わせず」ではなく「わたしたちを誘惑に遭わせず」と訳したことは正しいと考えられます。

この、主の祈りは、自分の力を過信することも、また苦しみから逃避することも教えるものではありません。誰もが自分の行く手にたちはだかっているさまざまな障害を一つひとつ克服していかなければ前に進んでゆくことができませんが、そこにあるのが自分の手には負えないということもあるのです。その場合、苦しみに耐えられなくて、危険な誘惑に身をゆだねてしまうことがないよう、神様、守って下さい、というのは人間として当然の祈りなのです。

 

さて「我らを試みにあわせず悪より救いだしたまえ」で「悪」と言っているのはマタイ福音書では「悪い者」です。悪と悪い者、どちらが正しいのか、原文はどちらにも翻訳できる言葉になっていて永らく論争が続いてきましたが、どうやら「悪い者」で決着しそうです。「悪い者」から「悪」が来るからです。「悪い者」とは誘惑を来たらせる者、サタンとか悪魔とか言われる者にほかなりません。

 

このあたりの事情を、創世記の冒頭に置かれた有名な「蛇の誘惑」の物語はみごとに説明しています。

蛇はまず、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言います。神は人をエデンの園に住まわせ、そこにある木の実を自由に食べてよいが、ただ園の中央にある「善悪の知識の木」の実だけは食べてはいけないと言われました。人は神様の豊かな恵みに養われています。そして神は人間に自由を与えておられますが、その中に一つの小さな禁止、これだけはしてはいけない、ということがあったのです。ところが蛇はそのことを承知した上で、「園のどの木からも食べてはいけない、と言われたのか」と神が言っているかのように語りかけてきました。蛇が言おうとしたことは、あんたたちはそんな意地悪な神様を信じているのか、神様に従っていってもけっきょく窮屈で、不自由でしかないではないか、と言うことです。人はこの蛇の誘惑に対し、最初は抵抗していましたが、あの木の実を食べても死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ、と言われたことで、ついに禁断の木の実を食べてしまいました。蛇は、神様が言っていることはうそだ、あなたがたがそれを食べると神様と同じように善悪を知る者となる、つまり神様と同等の者になってしまうから、そうさせないように食べるなと言ったのだ、と告げたのです。

蛇は、神様を信じて、従っていても良いことはない、神様から自由になって、自分の思い通りに生きたらよいではないかと言い、人はそれに引っかかってしまったのです。

このお話から私たちは、誘惑に陥るということが、単に何か悪いことをしてしまうこと以上の意味を持っていることがわかります。誘惑とは人を神様から引き離すことにあるのです。ここで私たちは、「悪より救い出したまえ」、「悪い者から救ってください」の意味がもっと深く見えてくるでしょう。これは単に「悪いことをしなくてすむように」ということではありません。「私たちを神様から引き離そうとする悪い者の誘惑から守ってください」ということなのです。

かつて神様は完全な、美しい世界を創造なさいました。天地創造の物語の中に「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創131)と書いてあります。その世界に神の望まれないものが入り込みました。空想でも幻想でもなくて、現実の力として人間の心に働いているもの、それが悪い者、悪魔です。

 人が生きていく中で危険な場面が起きることがあり、その状況の中で、人はしばしば悪魔の誘惑にのってしまいます。現実からの逃避がその一つで、そこには前向きなことは何もありません。現実から逃避しなくても、神様以外の力に頼って厳しい状況を打開しようとすることが起こります。いくら信仰を持っている人であっても、神様の力よりそれ以外の力の方が大きいと思ってしまう瞬間があるものです。神をおそれる気持ちより、悪魔をおそれる気持ちの方が強くなってしまうのです。

 しかし、冷静になって考えてみましょう。悪魔の仕事は神のなさった仕事を破壊して無にかえすことにあります。悪魔はこわすことは出来ても、造ることは何も出来ません。神が創造した素晴らしいものがなければ、悪魔の働く場はないのです。もしも皆さんが、悪魔にあやつられて悪を行う人間から、力でもって、あるいは巧妙な手段によって悪の道に引きずりこまれそうになったら、もう一度信仰の基本に立ち返ってみましょう。悪魔とは、破壊すること以外に能がない者たちにすぎません。しかし、人が破壊をおそれるところから、あたかも力ある者のようにふるまうことが出来るのです。

 私たちに襲いかかる誘惑で一番危険で一番身近なことは、神様から私たちを引き離し、この世の力の大きさを信じこませ、神の働きの場をせいぜい私たちのちっぽけな頭の片隅に追いやることではないでしょうか。私たちはそのような誘惑に打ち勝つために、たえず祈っていなければなりません。自分の力で勝とうとする前に、まず祈ることが大切です。

 信仰のたたかいは誰にとっても難しいのですが、しかし喜ぶべきことは、主イエスがすでに悪魔の誘惑をしりぞけ、悪の力に勝利されていることです。

 ペトロはイエス様を三度裏切ってしまいました。「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったにもかかわらず、悪魔の誘惑に屈してしまいましたが、イエス様はこれに先立って、彼が信仰がなくならないようにと祈って下さいました。

私たちもイエス様に従って歩もうとしながら、何度もサタンのふるいにかけられ、信仰を失いそうになります。しかしイエス様が、天から私たちのために「信仰がなくならないように」祈ってくださっているのです

私たちはイエス様のこの執り成しの祈りに支えられながら、主の祈りを唱え続けましょう。神様から来る試みを受けとめつつ、誘惑に陥ってしまうことのないよう、歩んでゆく者となりましょう。

 

(祈り)

 天の父なる神様。あなたは今日、ご自分が世界を支配なさっていること、そしてイエス様が私たちの魂の牧者であることを、みことばの解き明かしによって示して下さいました。神様の偉大な力を賛美いたします。神様、どうか試みの日に私たちの信仰を守って下さい。天下国家のことから私たちのふだんの生活まで、悪魔の誘惑が満ち満ちていますが、教会と私たちが守られ、これをはねかえし、神様の栄光を輝かす転機とすることが出来るよう、信仰をもっていて良かったと感謝することが出来ますように、と願います。

今日、神様から頂いたみ言葉を私たちが心にいだき続け、主の祈りをまさに主が喜ばれるかたちで唱えてゆくことが出来ますように。

 

戦争と戦争の危機があり、感染病との戦いがますます重大なものになっていく中、この国を、また教会をお守り下さい。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってみ前におささげします。アーメン。